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■ 秋田アトリエゆうの児童絵展にジンバブエの児童の絵も参加! 

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 今年のジャナグルジュニアの日本ツアーは、秋田市にも1週間ほど滞在し、
色々なところで公演をします。一番大きなコンサートは、児童絵教室アト
リエゆう、他の主催で行われるもので、会場はJR秋田駅裏のアルヴェの
1階、誰もが参加できる形で準備を進めてくれています。

 公演にさきがけて、児童絵教室を主宰する藤田悦子さんが、生徒さんの
絵の展覧会場にジンバブエコーナーを作りジンバブエの児童も絵も展示
してくれました。
 ジャナグル公演の小さなポスターも真ん中くらいに見えますし、1月に
北海道新聞で紹介されたこれまでの活動の記事も、ジンバブエのTシャツも
飾ってあります。
 男の子が地球儀をまわして言っています。
「あっ、お兄ちゃんここにジンバブエって国があるよ!」
そうなんです。地球はこんなに小さいのでした。

■チカップ美恵子さん、たくさんの贈り物をありがとう。 

 冬の祭りのにぎわいが吸い込まれそうなほど、深々と雪が降り
続く日、友人のチカップ美恵子さんが逝った。

 1月末には、チカップさんのアイヌ文様刺繍展「アイヌ・ネノ・
アン・アイヌ」が、北海道文学館で開催され、1週間に1000人を
超える、これまでにない入場者数を記録、新刊「カムイの言霊」
(現代書館)が、その会場で先行発売されたばかりだった。

 チカップとは、アイヌ語で鳥という意味である。鳥のように自由に
心を飛ばすことができるチカップさんは、分筆家であり詩人であり、
すぐれたアイヌ文様刺繍家であり、そして闘士だった。

 学術書に「滅びゆくアイヌ民族」として自分の写真を無断で使われ、
更科源蔵など研究者を「肖像権裁判」に提訴したのは1985年である。
 チカップさんの最後の展覧会の会場となった北海道文学館の創設
者が、その更科源蔵であることは2月6日、札幌で開かれた「送る会」
で知った。
 
 「送る会」の会場には、チカップさんのアイヌ文様刺繍が飾られ、
祭壇には、著書、記録ノートが積まれ、娘さんと一緒の写真が立て
られ、昨年6月に退院された時の「チカップさん、お帰りなさい」
という新聞記事があり、参列した友人が「世界一の祭壇」と讃える
ほど、すばらしかった。

 チカップさんのお母さんは詩人の伊賀ふでさんで、アイヌ文化復
興に力を尽くした山本多助エカシは伯父さんにあたる。チカップさ
んが、最も影響を受けたのは、このお二人なのだろう。お二人の話は
本当に興味深く、話題にのぼることが一番多かった。
 
 短い時間だったが、一生の間に何度も考えなくてはならないことを、
私は、チカップ美恵子さんに教わった。
 心から感謝している。
                      (ハラレにて)     

写真は、「送る会」の発起人代表 植村佳弘さんから参列者に渡された

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■ ガボンという国 

日本の衆議院選挙の日、アフリカのガボンでも大統領選の投票が行われた。

 ガボンは、アフリカ大陸の西側、赤道のあたりに位置する海に面した国で面積は日本の10分の7ほど、フランスの元植民地で石油、マンガン、ウランなどの産出国である。

 選挙は41年間大統領の座にあったオマール・ボンゴが7月に亡くなったために行われ、候補者はボンゴの息子のアリ・ボンゴの他に18人いたが、ボンゴ一族の支配を終わらせるために団結しようと、うち15人が投票日の1週間前に候補から降り、最終的には4人の戦いとなった。

 戦いと言ってもテレビで見る限り、首都はボンゴの巨大なポスターばかりで、公平さは感じられなく、選挙運動にはガボンで人気のあるラップのミュージシャンを使っている。

 故ボンゴは、フランスに宮殿のような家をいくつも所有し、国家予算を使っている疑いがあると調査するジャーナリストもいる。息子のアリはフランスで育ち教育を受けたため、自分の民族の言葉は話すことができない。父親に28歳で外務大臣に任命され、父親が亡くなった時は、軍の指揮官だった。


 投票から4日後、当選者はアリ・ボンゴと発表があった。残る候補者3人が開票結果は納得できないとすぐに再カウントの訴えがおこしたが、ボンゴは自分が大統領であると勝利宣言、各地で40年以上続いたボンゴ政治に反発する人々が道路にバリケードを築いたり、ガソリンスタンドに火をつけ、軍の出動となった。

 人々の怒りが爆発したとき、いち早く船で沖に出て別の町に避難した一行がいる。ガボンの石油を吸い上げてフランスに送り出す、いわばストローのようなフランス人だ。
 ガボンの石油はフランスに運ばれ、毎年一定の額が支払われているらしい。ガボンには中央銀行もないという。


 手元にある1982年版の現代用語の基礎知識の付録、世界時事ニュース地図を見てみた。このころ、アフリカでまだ独立していないのは南アフリカとナミビアだけである。
 
 統計は78年頃のもので、当時アフリカで一人あたりの国民所得が日本の10%を超える国は観光国のセーシェル20.6%、モーリシャス15.3%、鉱物の豊富な南アフリカ25%、ナミビア(当時は南アフリカの植民地だった)が17.9%、石油の産出国ナイジェリアでさえ9.9%だ。なのにガボンだけが突出して54.8%となっている。間違いでは?と思うような数字だ。

 これだけ所得があるのであれば、30年を経た今、せめてインフラくらいは整備されているはずだ。なのに、人々の暮らしは貧困のうちにある。


 41年間同じ大統領で、息子がまた大統領になった国ガボン、選挙後の暴動のことは、フランスのニュースで少し報じられただけで死者の数も定かではない。
 2週間が過ぎた今日、ガボンで投票用紙の再カウントが決まったというニュースが流れた。

 ガボンに対しては”民主化”を押しつける国も出てこなければ、緑やオレンジに旗の色を統一してレボリューションを叫ぶ”改革派”も出てこない。

 同じ大統領が何十年その座にいようが、問題ではないのだ。資源を吸い上げるストローがどこにつながっているかで”独裁者”にもなり”国民の父”にもなるのだ。

 

■ ヨハネスバーグ朝6時、気温はマイナス1℃だった。 

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写真右は、一緒にジンバブエに向かう私の荷物です。
四角い箱は、外務省からの助成金で購入したスピーカー。
1セットで28kgもあり、テナーサックスはどう工夫しても
持ち帰れませんでした。茶色のキャスターバッグには、アート
センター用の壁掛け時計3個と本にパソコン。
黒いカバンは次回帰国用で中には、みやげのお菓子が4袋。
赤いリュックにはカメラと洗面道具、手帳と本、長そでの
Tシャツ1枚、そして、金大中の訃報に最も紙面をさいて
いた朝日新聞。
これに、あとで鮭の切り身の真空パック(1匹分)を追加。
たとえハプニングがあって食料を買いに行けなくても、停電
になっても、これさえあれば食事は何とかなるのです。


この荷物を押して、いつものキャセイ航空のカウンターに
行くと「千歳ー香港のエコノミー席が満席なのでビジネス
クラスにアップグレードさせていただきます。」といううれ
しい一声。4時間でもリラックスして座れたら・・・・と
喜んでいると、なんと香港からヨハネスバーグ間もビジネス
クラスにしてくれました。

7年ぶりの香港―ヨハネスバーグのビジネスクラスは、まさし
く雲の上に横たわるような快適さで、座席があらゆる角度に
調節でき、ベッドにもなります。
左右にはほどよい高さの隣席とのしきりがあり、そのしきりに
テレビのスクリーンとテーブルが組まれていて、スライド式に
出てくるようになっています。
照明は2種あり、ヘッドフォーンから流れてくる音はよく、白
いカバーの羽根布団がまるで個室かと思わせるのでありました。
食事はコースで出てきて、食べきれないほどです。

いつもなら、到着まであと何時間かと時計ばかり見るのですが、
この雲の上のベッドでは、時間などまったく気になりません。
眠っては映画を見、本を読み、ふと気がつくと夜は明けて、
飛行機は南アフリカの上空を飛んでいました。できることなら、
あと数日こうして飛んでいたいのに、もう着いてしまう・・・・。

機長のアナウンスが流れます。

「みなさん、おはようございます。只今のヨハネスバーグの
気温は摂氏マイナス1℃です。」
暑い香港からいきなりマイナス1度。このアナウンスのあと、
あたりが一瞬しずまりました。


到着した空港の中は冷え込み、働く人たちは、みな紺色の
長いオーバーを着ています。その一人に「寒いですね」と
言うと、「凍るほどよ」と言って、セーターの襟を立てて
いました。

陽のあたる場所でなければ寒くていられないので、音楽を
聞きにCDの店に行きました。
店内のスクリーンに、南アのゴスペルシンガーが数人で
熱唱し、観客も立ち上がって歌っているビデオが流れて
います。横を見ると、3人の店員さんも一緒になって歌って
いました。
ひとりが私の横に来て「この曲、いいと思わない?」と
聞くので「確かに」と答えました。

南ア航空でハラレに到着したのは12時15分、気温は21度まで
上がっていました。機長がアナウンスしていたとおり、
 ”ラブリーディ” でした。
                          以上

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■ 韓国大使館で見た盧武鉉の国民葬 

 5月29日、プロバイダーの会社に行った折、同じビルに韓国大使館が入っていることを思い出し、行ってみた。

ドアを開けると、壁に備え付けられた大きなテレビに映る盧武鉉前大統領の国民葬の中継が目に飛び込んできた。韓国の国営放送だろうか。画面には小さくYTKとある。

セキュリティガードの男性と大使館で働いている若い女性が、椅子に座ってテレビを見ていた。ガードマンが「中の椅子に腰をかけて見て」と言うので、女性の隣の椅子に座った。

ぎっしりと参列者で埋まった広場、カメラがどの方向に動いてもそこには人があふれている。ガードマンが驚いて
「彼は民衆のヒーローなの?」と女性に聞いている。

盧武鉉が大統領に当選した時と同じ黄色の帽子をかぶりにぎりこぶしを上げる人たち、垂直に立つ無数の晩章(弔い旗)、追悼の言葉が書かれた無数の黄色いリボン、泣きながら盧武鉉の写真を高く掲げる人、霊柩車に向かって飛ぶ黄色の紙ひこうき、その紙にも追悼の言葉が書かれているという。

この一週間、私は停電の合間に韓国の新聞を読み、記事の中に必ずひとつは心に残ることがあることを発見してきた。

まずは、盧武鉉のホームページが『人が生きる世の中』という名前であること、盧武鉉を愛する会『ノモサ』の存在、盧武鉉の自宅のある金海市のポンハ村に全国から30万人以上の弔問客が訪れたこと、30度を超える暑さにもかかわらず喪服の上着を脱ぐ人はいなかった、そこでは葬儀委員会とボランティアが24時間体制で食事を配ったこと、そのメニューが牛肉のクッパ、キムチ、蒸し餅、ミネラルウォーター(深夜はパンと牛乳に変わった)であることまで、私は手帳にメモした。

しかし、大使館で見た映像にはそれを超える感激があった。

午後1時20分から始まった路祭は、「招魂の儀式」ではじまり、
国立唱劇団による「招魂の声」国立舞踏団の「招魂の舞」と続き
アン・ドンヒョン、キム・ジンギョンが追悼詩を朗読ーーアン・スクソンのパンソリーー黙とうーー故人の遺言朗読、そのあと
司会者の呼びかけで、参加者全員「盧武鉉大統領、愛しています」と一斉に叫び、へバンギ(グループ名)の「愛で」という曲を大合唱したというのだ。

韓国には、世代を貫通する詩があり、歌があるのだ。

この日のことは、詩になり絵になり歌になり映画になり、消えない記憶となっていくだろう。

                     高橋 朋子